"自分"はインドに捨ててある
最近自己分析――というか、これまでの自分を振り返ってみているのですが、見えてきたものもあれば、見えないものもあります。
「本当の自分探し」にハマる就活生が急増中!なぜ自己分析にこだわる学生は、内定が出ないのか|就活生のための最新業界・企業研究2015-2016|ダイヤモンド・オンライン
この記事、なんだかすごく納得できました。
先ほどの「見えてきたもの」と「見えないもの」の話ですが、前者は自分の性格の根幹についてです。色々な行動を振り返っても、明らかに変わらない自分の軸を見つけました。
問題は、その軸が長所かどうか微妙な、扱いづらいものだったという点ですが。
一方、「見えないもの」は、自己分析の意味です。
私は高校も大学も第一志望には合格しませんでした。挫折が胸に刻まれて尾を引いているのも事実ですが、もうひとつ、重要なことに気づきました。それは、"自分"というものは結構簡単に、それこそ"水の如く"変化するということです。
望まない空間に投げ出され、乗るつもりもなかった電車に乗せられ、所属を訊かれれば言いたくもない学校名を名乗らされて今日まで生きてきたわけですが、まさに「住めば都」で、やがて私はその第一志望でもなんでもない学校に適応してしまいました。そういうこともあって、天職なんてものは今のところ存在しえないのではないかと思ってしまうわけです。
エントリーする時には必ず業界をある程度選ばなくてはいけないわけですが、天職だと思って応募する必要はないのかもしれません。
昔から私は、「自分探し」という言葉が嫌いです。だいたい、不変の自分がいるとも思っていないし、ましてや自分がどこか旅先(※インドとか南米とか山奥とかが多い)に捨ててあるなんてことなんてあるはずがないと思っているからです。
自己分析の作業を考えると、もしかして私たちは自己を分析させられているのではなく、自己を(小説のキャラクターの設定のように)作らされているのではないかと感じることがあります。
採用側が困らないように、本来複雑な人格というものを単純化する作業が自己分析なのだと思えば、人文学系として、大学入外以来文学部の観点から人間の複雑な営みを考えてきた身としてはちょっと気が楽になりそうです。
それにしてもこのシリーズ、面白そうなので全部読んでみようかなーと思います。